桜のトンネルを次の世代につないでいく!未来の子どもたちに「さくらのまち日立」の原風景を届けたい。

桜のトンネルを次の世代につないでいく!未来の子どもたちに「さくらのまち日立」の原風景を届けたい。

日立市都市建設部さくら課 茨城県日立市

寄附総額25,034,000

0 達成

目標金額4,000,000

寄附人数277

残り日数 0/17

プロジェクトに寄附(返礼品なし)

最終更新日時:2021年06月30日 01時00分

  • # 景観・自然保護
日立市都市建設部さくら課 プロジェクトオーナー

日立市都市建設部さくら課

本市は、春になると美しく咲き誇る桜でいっぱいになります。本市のシンボルである桜は、市民と企業が力を合わせて煙害を克服した力強い歴史があります。
この「さくらのまち日立」の原風景を次の世代に引き継いていくため、本市では、令和元年7月に全国でも珍しい「さくら課」を新設し、日常管理と保全をはじめ、「日立らしさを大切にしたさくらのまちづくり」を推進しています。

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今私たちにできること!平和通りの桜並木を植え替えて「さくらのまち日立」の原風景を次の世代に引き継いでいきたい。

平和通り桜並木のライトアップ

平和通りの桜ライトアップの様子

2021年6月14日から募集を開始し、6月20日までに目標額400万円を達成しました。
応援いただきました皆様、本当にありがとうございました。
当面の間、募集を継続しますので、引き続き応援をよろしくお願いいたします。

はじめまして。日立市役所のさくら課です。
この度は、数あるプロジェクトの中から、当ページをご覧いただきありがとうございます。

本市は、春になると美しく咲き誇る桜でいっぱいになります。
本市のシンボルである桜は、市民と企業が力を合わせて煙害を克服した力強い歴史があります。

この「さくらのまち日立」の原風景を次の世代に引き継いでいくため、「桜の保護育成」、「桜を守り育てる体制づくり」、「桜を活かしたまちづくり」を柱に、市民・産業界・教育機関等とともに、官民協働による「日立らしさを大切にしたさくらのまちづくり」を推進し始めたところです。

小学校でのさくら教室の様子

小学生を対象に実施した「さくら教室」の様子

どうして、「平和通り」の桜を植え替える必要があるの?

「平和通り」には、ソメイヨシノが植えられており、日本の「さくら名所100選」にも選定されています。最初に植えられてから70余年が経過し、樹勢の衰えが顕著にみられるようになっております。そのため、植えられてから40年~70余年が経過した桜について調査しました。その結果、木の内部が腐っていたり、空洞が存在するものがあることが分かりました。

桜の調査の様子

平和通りの桜の樹勢診断の様子

いつまでも、桜が咲き続けるために・・・

本市のシンボルである、この美しい桜並木を次の世代に引き継いでいくため、できる限り景観に配慮しながら、衰弱して枯れてしまう危険が迫っているソメイヨシノから順次、ソメイヨシノの若木に植え替えていくこととしました。また、桜並木を守り育てていくことが大切であるため、日常管理についても、年間を通して適切に行っていきます。

桜のトンネ平和通りの桜の様平和通りの桜の様子(約10年前)

約10年前の平和通りの桜の様子

2020年 平和通り桜(駅側から)

現在の平和通りの桜の様子

平和通りの桜はいつ植えられたの?

平和通り完成当時の様子

平和通りに桜が植えられたのは、1951年(昭和26年)4月3日、友末洋治茨城県知事(当時)と高嶋秀吉日立市長(当時)が記念植樹を行ったことが始まりです。その後、同年10月に地元の人たちの協力により、国道6号からけやき通りまでの約600m区間の両側に75本のソメイヨシノが植えられました。

また、商店街などの地元有志の強い要望もあり、1977年(昭和52年)に、けやき通りから日立駅前までの約330m区間にもソメイヨシノが植えられ、当初からの桜と合わせ、合計115本(当時)の桜並木が完成しました。

なぜ、日立市のシンボルである桜は、力強い歴史があるの?

大煙突とオオシマザクラ

首都東京から約130km離れたこの地が発展するのは、明治政府の銅輸出解禁による需要増大等を背景に、1905年(明治38年)、久原房之助氏が、それまで採算のとれなかった銅山に近代資本を投入し、銅の採掘を本格化したことに始まります。

その後、外国技術に頼らざるを得なかった当時の電気機械分野において、小平浪平氏が自主技術による製品開発を志し、1910年(明治43年)に、第1号製品となる5馬力誘導電動機の製作に成功しました。

こうして、近代産業の礎がつくられる一方で、銅の製錬増大に伴い、排煙による煙害の問題が広域化し、深刻化していきました。

そのような中で、地域住民と鉱山は「共存共栄」の道を探り、試行錯誤を繰り返しながら、1915年(大正4年)、当時世界一の大煙突(高さ155.7m)を建設し、煙害問題を克服していきました。

同時に、煙害により草木が枯れ地肌があらわになった山々に、耐煙樹種であるオオシマザクラを中心に、鉱山自ら約870haに及ぶ山肌に約500万本の植林を行うとともに、500万本を超える苗木を地域住民へ無料配布するなど、自然環境回復への地道な努力が続けられ、現在では、鉱山跡地周辺は、深い緑の山々に包まれています。

その後、オオシマザクラがうまく育つようになると、この苗木にソメイヨシノの苗を接ぎ木し、大量に作りだし、社宅周辺、学校や道路沿いなどに約2,000本を植樹しました。

これが、本市の春を彩る桜のルーツであり、本市のシンボルとして今まで引き継がれてきたのです。

※プロジェクトの成果情報は申込み時のデータであり、実際に入金されたデータではありません。

※入金の確認が取れた時点などで正確なデータに修正させていただく場合があります。

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